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岩手県花巻市の、とある田園地帯に設置された石碑には、以下の詩が刻まれている。何度読んでも心に響く。まだ年端もいかない、幼い年齢で稲作に取り組む少年に語り掛けている情景を語った詩である。
(「稲作挿話(あすこの田はねえ)」より抜粋、宮沢賢治「春と修羅」第三集 1927年作 旧仮名遣いを現代仮名遣いに変更してあります)
早朝の自主勉強、自主研究を始めてすでに10年近くになる。最初は、独立して創業間もなくで軌道に乗らずにつぶれそうだった自分の会社の立て直しのため、研究時間を捻出するには朝しかなかったから、やむを得ず渋々始めた。そのあと軌道に乗った会社の事業拡大のため、いくつか資格を取ったほうが良いということになり、資格試験の準備時間を捻出するために使った。おかげさまで試験には受かったが、早起きと早朝学習が習慣になったので、そのまま惰性で今日まで続いている。
次第に寝るのも起きるのも早くなって、取り組んでいた当時は23時就寝5時半起きだったのが22時就寝4時起きになり、21時就寝3時起きになり、20時半就寝の2時半起きになり、最近では体調が良くて早めに仕事を上がることができた日には、19時就寝の午前1時起きだ。
学ぶ内容は稼ぎに直結しているときも直結していない時もあり、好奇心の任せるままに発散気味になる場合もあるが、学習の継続は付加価値の源泉、生きる喜びの源となる。
新しい発見、知識の結合度の向上につながり、知的には純粋に楽しい。
勉強は楽しいが、楽しいと言ってしまうと周りの人が気持ち悪がるので、言えずにいる。
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休憩時間に冷え切った冬の夜明けの空気を吸いにベランダに出て、空を眺めながらふと、昔のことを思いだした。
家庭の事情で学費を賄うことができず、複数の仕事を掛け持ちし、働いて学費を稼ぎながら苦学しながら大学に通っていたあの子は今どうしているだろうか。学習時間が捻出できずに不勉強は怠慢だと教授になじられ、泣いていたあの子は。
稼いだ金の最大1割くらいは儲けは無視して誰かのために使いたいと思っている。だから、いくばくかの学費の寄付をして、もう何年もたつ。
ほんとうの学びへの欲求は心の奥から湧き上がる、内発的な動機であることが多いと思う。人生に欠けた部分がある人が、人生を変えたいと思い学びたいと渇望する。裕福な家の子にはこの渇望感は理解できないだろう。共感できるところがあったから、支援したのだった。支援してしばらくは時々近況報告があった。こちらが何度か転居し、月日が経つうち、連絡先も途絶えてしまった。
君の毎日の努力は一つの点となり、また別の努力が別の一つの点となり、努力の積み重ねが点々と広がっていって、いつか俯瞰すると大きな絵になる、あきらめないで頑張りなさいと伝えた。幸せに暮らしているんだろうか。
私の出身は岩手県の花巻(はなまき)市というところだ。小学校の大先輩である宮沢賢治の詩の一説を贈りたい。